法雨抄

万歳山2005年09月01日

 大村藩は19代喜前(よしあき)公が英断を以て日蓮宗に改宗してから、ようやく民心の安定を見るようになって8年、慶長18年(1613年)喜前公は家督を純頼公にゆずりましたが、純頼公は在位わずかに6年にして元和5年(1619年)11月13日急逝されました。其の時一子松千代君は僅かに2歳でした。当時の徳川幕府の制度としては後継者幼若のときは領地没収と言うことでしたので、領民の心配は大変なものでした。
 家老大村彦右衛門は藩主病中と繕い家督相続の嘆願のため急ぎ幼君を抱いて江戸に上る手はずをととのえていました。しかしその頼みの綱の松千代君が病気になってしまわれたのです。松千代君の生死は大村藩の運命を左右する大事でした。そこで彦右衛門はわが娘亀千代の命に代えて松千代君のを助けたまえと神明に祈願をこらしました。其の甲斐あって松千代君の病は本復し、元和6年正月彦右衛門は幼君を抱いて江戸に上り、赤誠を披瀝して家督相続の嘆願をつづけました。紆余曲折を経て家督相続が許されたのは5月16日のことでした。
 早速使者が大村へ飛びました。使者が大村へ着いたとき、重臣たちは本経寺の純頼公の墓前に家督相続成就の祈願を凝らしていました。そこへ使者が朗報をもたらしました。重臣たちは期せずして「万歳」「万歳」と叫び、其の声は全山にどよもしました。
 このとき人々は本経寺開堂供養のおり大導師が残した山号「万歳山」の深い意味に気付き、今まで開山法性院日真上人の院号に因み「法性山」(ほっしょうざん)と言ってきたのをこれより「万歳山」に改めたといわれています。
 しかし、この家督相続成就は彦右衛門にとってはわが娘亀千代の命を神明に捧げなければならない日の訪れでもありました。
 日蓮上人一昨日御書に曰く
 世を安んじ、国を安んずるを忠となし、孝となす。

平成17年9月1日 「万歳山」

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