法雨抄

創立400年2005年08月01日

暑中お見舞い申しあげます。
 今を去る四百年前大村はキリシタンからの改宗を迫られて、岐路に立っていました。キリシタンは確かに大村に大きな利便を与えてくれました。しかし、キリシタンの布教が西欧先進国の領土拡張の野望に利用される危険性が指摘されて、事態は一変しました。そうした大村第19代喜前公の苦境を救ったのが肥後熊本の盟友加藤清正公でした。加藤清正公は法華経の熱心な信者でしたから、折に触れ、時に触れて喜前公に法華経の話をして、決断を促されたものと思われます。
 喜前公は慶長8年の末から9年にかけて領内の宣教師を領外に追放し、慶長10年にはキリシタンとの関係を全く絶ち、法華経への改宗を宣言、其の証として本経寺建立を発願しました。加藤清正公は自ら図面を引くと共に、法門の師である法性院日真上人をして高弟本瑞院日恵上人を大村に派遣して、喜前公を助けさせられました。
 こうして喜前公は本経寺建立にとりかかったのであります。そして今年がちょうど400年に当たるということです。
 しかし、2万7千石の大村にとって、加藤清正公設計の間口9間奥行12間の本堂を中心に七堂伽藍を整えた大建築は藩の財政を傾けての大事業だったと思われます。そして諸堂が完成し、見延山法主寂照院日乾上人を開堂師として迎え、盛大な開堂供養を営んだのが、慶長13年の8月如意珠日であったと、その開堂供養のときの御本尊に認めてあります。
 藩の財政を傾けてでも取り組んだ法華経への改宗はやがて領民に精神的なやすらぎと喜びを与えることになり、大村の豊かな人情と風土を培ってきたのであります。
 日蓮上人法華初心成仏抄に曰く
 法華経を以て国土を祈らば、上一人より下万民に至るまで、ことごとく悦び栄え給うべき、鎮護国家の大白法なり。

平成17年8月1日 「創立400年」

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