法雨抄

土の器2003年03月09日

 再び日野原重明氏の「いのちの器」からひろってみましょう。
 「私たちの子供のころは、ステンレスやプラスチックやディスポーザブルの器はなく、たいていの容れ物は土でできた陶器や磁器の入れ物であった。小さな手に持った大切な器を落として当惑したり、叱られたことを思い出す。
 私たちの今のからだは、ステンレスでもプラスチックでもなく、朽ちる土の器である。その中に何を盛るかが、私たちの一生の課題である。
 若い時から、一生をかけて盛る、土でできた命の器を、いのちゆえに器も大切にしたいと思う。」
 そして、
 その「肉体という器の中に私たちは心を入れている。何が、人間を人間たらしめるかは、その宿命的な土の器そのものではなしに、その器の中に何が入っているかによって決まる。その場合、その中に何を入れるかは私たち一人一人の選択によるのである。」と。
 その器の中には何をいれるかというが、その中に入っているのはみんなの心です。心がはいっているとすれば、その心のあり方が器そのものを美しくもし、醜くもするのではないでしょうか。だから常に自分の心をみがき、実力を涵養し、周囲の人々によろこびと安らぎを与えることができるとすると、その人の器もまた朽ちることを知らない名器となるのではないでしようか。
 法華経の言葉に「心に妙法を存するがゆえに、身も心も、物憂きことなし」とありますが、「この命は自分のためだけにあるのではない、世の中の正しい仕事をするために大切ないのちなのだ」と思えば生きる力がわいてくるのではないでしょうか。
 そういう心を信心というのです。
 日蓮上人十八円満抄に曰く
「総じて予が弟子らは、
  わがごとく正理を修行し給え」

平成15年3月1日 「土の器」

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