法雨抄

寛容1999年08月01日

 暑中御見舞申しあげます。

 茶道の祖と言われる千利休がある時友人に招かれ、茶室に入ろうとした時、潜り戸の前で穴に落ちてしまいました。
 利休は一度引き返して入浴し、衣服を改めて茶室に入りましたが、相客たちは利休のハプニングを話題にして語り合い、たいそう和やかなパーティだったそうです。
 所が、利休は茶会に出る前に、別の友人から、茶室の前に落とし穴を作ってあると言う趣向を知らされていました。利休は知っていながら、亭主の趣向に合わせて、わざと落ちこんだのです。利休はあとで
 「茶は、いたずらに、へつらうわけのものではないが、主人と客とが一つの心にとけあう、調和という事を無視しては成り立たない」
と説明したということです。
 へつらうのは卑しいことですが、調和を無視して人間関係は成り立ちません。このことを自らの行為で示した利休は、さすがに茶道の祖とされるだけの人物でした。(水原修三:三分間スピーチより)
 わかっていて罠にはまるなんて、そんな馬鹿なと言うかもしれませんが、今の人たちは余りにも利口すぎるのではないでしょうか。多少ばかげた事にも、目くじらを立てないで、笑顔で対し、相手の趣向にも乗って、その場の空気を和やかにするくらいの寛容さは持ちたいものです。
 然し、寛容ということは、善と悪との橋渡しをするものではありません。悪は絶対に許されるものではありませんが、善に限ってみるとき、人夫々に専門もちがい、認識の程度も違いますので、意見の違いが起こる事は当然の事でしょう。然し、その場合おのれのみを是とし、他は全て非として退けてしまうのは如何がなものでしょうか。自分も生き、他もまた生かす道があるのではないでしょうか。それが寛容と言うことでしょう。日蓮上人南条書に曰く

 「彼の国によかりし法なれば、必ずこの国にもよかるべしとは思うべからず」

(平成11年8月3日)

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