法雨抄

尊いかないのち1998年12月01日

関ヶ原の合戦のころ、およそ4百年前に自分の祖先がだれであったかを考えたとします。平均25歳で子供を産んだとして、自分から数えて16代前。
そうすると自分の祖先は65,536人もいたという計算になるのです。そのうちたった一人でも子孫を残す前に命を絶っていたら、今こうして「私」が存在することはなかったのです。
「私」という存在が必然なのか、それとも偶然なのかを考えたとき、その答えは明らかに偶然であり、それも天文学的に低い確率での偶然であることに気づかされます。己の存在を絶対的なものだと信じて疑わない人を哀れむと共に、神から授かった貴重な命を大切にしていくことを思わずにはいられません。
これは松山市の33歳の会社員H氏が先日の朝日新聞への投書の一部です。
同様に4百年後の子孫もまた似たり寄ったりの数になっているのではないでしょうか。「私」の存在は決して「私」だけのものではないと言うことです。
もと京大総長だった平沢興先生は
「この地球上に生物が生まれ出た時が人類の歴史の始まりだから、この70億年という人類の歴史が無ければ今日の私は生きていない」
といっておられますが、私たちは大きな命の流れの中の今を、責任を負わされていると言うことではないでしょうか。
だとすると、その今を私たちは大事に、立派に生きて行かなければならない重大な責任があると言うことでしょう。
その命を余りにも軽く扱う事件がこの頃多いことは本当に残念、というよりも命に対する大きな冒涜ではないでしょうか。

日蓮上人は可延定業御書に
「命と申す物は一身第一の珍宝(たから)なり。一日なりともこれをのぶるならば、千万両の金(こがね)にもすぎたり」
と生命重視の態度を示し、その生命が法華経(真理)に生きることによって真の生命たりうるとされたのです。

(平成10年12月1日)

法雨抄一覧へ戻る