心がこもってこそ1998年10月01日
今の芸術家というものは、他人の真似をしない、人のやったものはやらないとかなんとか、体裁のいいことを言っているけれども、デザインの中には人の真似、真似、真似でもって、それをいかに磨くかによって完成されたデザインもあるわけですよ。そういうデザインになると、真似を通り越して自分がどこまで到達できるか、というのが職人の命になるのです。ここを忘れているのが現実なんです。私もですね、それを忘れて、一寸角に何粒の細かい紋様が出来た、やれ何が出来たと言って喜んでいたんですよ。然し、そういうものはあくまでも、全部形式であって真実の美とは違っていたのです。‥‥‥
四十歳の時、ある一人の型彫師との出逢いでそれに気付いたのです。‥‥‥
型を彫る人の心がこもってこそ、人に感動を伝えられるものが染め上がるのです。美しさ、思いやり、優しさ、それらが感動となるのです。私は四十歳の時、そういうものに気付きました。
今年七十四歳になる染色界の人間国宝小宮康孝さんはこう述懐しています。(シグネイチャー10月号)
型と言ったって、所詮紙型ではないか。紙に心があるわけでもなし、器用に型紙が彫ってあれば、後は染色師の腕次第と思いがちですが、勿論染色師の腕も大事でしょうけれども、その前に型を彫る人間の技が染めの善し悪しに大きなウェイトを占めると言うのは感銘をおぼえました。型彫師と染色師の技の合体が感動的な作品をうむのです。そして、その技とは互いの思いやりであり、優しさであり、心だったのです。
思いやり、優しさと言うものは心なき物にも命を吹き込み、心を投入してゆくものですが、逆もまた真なりで、その思いやりも、優しさも忘れた技術万能の人間の思い上がりが、今日の環境問題、社会問題となってしっぺ返しをしているのではないでしょうか。日蓮上人は一生成仏抄に曰く
衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清し、と。
(平成10年10月1日)