法雨抄

神は子を愛らしくつくりたまえり1998年01月01日

今年が佳い年でありますよう
    御祈り申し上げます

ある時、アラビヤのバスタを通りかかった隊商の一行に、息せききって飛んできた一人の男が尋ねました。
「今子供を見失ったのですが、皆さんお見掛けになりませんでしたか、綺麗な玉のような子です。」
「そんな子供は見なかったよ」
隊商はそのまま通りすぎました。
暫くたって、あの男が嬉しそうに子供を背負って隊商一行の所へやって来ました。
「先程はすみませんでした」
と、挨拶して立ち去ろうとした時、彼が背負っている子供を見ると、色は真っ黒に日に焼けて、御世辞にも美しい子供とは言えませんでした。隊商たちは
「それが君の子供か。そんならさっきからこの辺りで遊んでいたよ。君が綺麗な玉のような子供と言うから判らなかったんだ」と、嘲り口調で言うと、男は笑いながら、
「神の子を、父の眼に愛らしくつくりたまえり」
と、アラビヤの詩人の句を口ずさみながら去って行ったということです。
世の中にみにくい人とか、卑しい人とかいうのはないはずです。
「三界は皆これわが家なり、その中の衆生はことごとくこれわが子なり」
です。皆仏の子なのです。
しかし、何時の間にか、みにくい心、卑しい心の人が出来て来るのはどうしてでしょうか。鏡の表でも何時の間にか埃が曇らせてしまうようなものでしょう。だから時々は磨いてやりたいものです。
日蓮聖人は「一生成仏抄」に
「暗き鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し。・・・迷う心は磨かざる鏡なり。・・・深く信心を発して日夜朝暮に又おこたらず磨くべし」と論しておられます。

(平成10年1月1日)

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