本経寺は、長崎県で一番古い日蓮宗のお寺で、大村家の菩提寺であり、国指定の史跡にもなっております。又加藤清正公ゆかりの5山(五つの寺)の内の一つでもあります。
最近は信仰の形態も変化しつつありますが、昔から「寺小屋」と言って、寺は文化発信の中心でした。そこで大村法華の伝統を大事に、時世にも続く信仰の継続を図るべく、新たにいろんなことをこのホームページ等によって発信していきたいと思っています。
本経寺 住職 佐古 亮景
本経寺は、長崎県で一番古い日蓮宗のお寺で、大村家の菩提寺であり、国指定の史跡にもなっております。又加藤清正公ゆかりの5山(五つの寺)の内の一つでもあります。
最近は信仰の形態も変化しつつありますが、昔から「寺小屋」と言って、寺は文化発信の中心でした。そこで大村法華の伝統を大事に、時世にも続く信仰の継続を図るべく、新たにいろんなことをこのホームページ等によって発信していきたいと思っています。
本経寺 住職 佐古 亮景
名称 |
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宗派 |
開基 |
所在地 |
TEL / FAX |
住職 |
萬歳山 本経寺 |
日蓮宗 |
1605年(慶長10年) |
〒856-0822 長崎県大村市古町1-64 |
0957-53-5510 / 0957-52-5473 |
佐古 亮景 |
宗祖 |
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開宗 |
御本尊 |
題目 |
経典 |
総本山 |
日蓮大聖人(1222~1282) |
建長5年(1253年)4月28日 鎌倉時代 |
久遠の本師釈迦牟尼仏 |
南無妙法蓮華経 |
妙法蓮華経(法華経) |
身延山久遠寺(山梨県 南巨摩郡身延町) |
大村藩第18代大村純忠はキリシタン大名として有名であり、長崎開港の大恩人であるが、その信仰の故に長崎の要所を宣教師に解放してキリシタン禁止の要因を成した。
その子第19代喜前は、父の信仰を受けながらも、幼少の頃は人質として他国に在ること多く、その為にキリシタンとの縁薄く、長じて後は加藤清正との親交を通じて法華経との縁が深く結ばれていた。
関ヶ原の役後、加藤清正の指導により英断を以てキリスト教を廃し日蓮宗に帰依した。
喜前は菩提寺の建立を発願し、熊本本妙寺の法性院日真上人を開山にお願いした。
そこで日真上人は本瑞院日恵上人を大村に派遣し、慶長10年(1605)加藤清正の設計を得て工事を起こし、慶長13年(1608)間口9間、奥行き12間の大本堂を中心に七堂伽藍が完成した。
同年8月寂照院日乾上人の来駕をこうて開堂大法要を厳修、萬歳山本経寺と号した。
この後漸次領内に末寺が建立され、大村八ヶ寺と称さるるに至り、本経寺は中本寺となる。
爾来、日蓮宗の宗風大いに起こり、「大村法華」と称さるるに至った。
然るに安永7年(1778)不慮の火災により全堂ことごとく消失。
その後、9年を経て、天明7年に再建されて今日に至る。
本経寺は熊本本妙寺と同じ法性院日真上人を開山とし仰ぎ、大村藩中興の名君十九代喜前公の建立になるもので、世に言う清正公ゆかりの妙法蓮華経五ケ寺のひとつであります。
喜前公は有名なキリシタン大名純忠公の子で、天正十五年その後をつぎましたが、まもなく豊臣秀吉のキリシタン禁令が出され、早々に領民の信仰との間に立って苦しみをなめました。
こうした中で親交のあった加藤清正公を通じて、その師法性院日真上人に知己を得、日真上人より聞く法華の教は喜前公多年の迷を晴らして行きました。
しかし、その後徳川の天下となってキリシタン禁圧いよいよ厳しさを加うるも、領内のキリシタンはいささかもおとろえを見せず、遂にキリシタン容認のかどを以て告発をうける仕儀になりました。
此は関ヶ原役の戦功と清正公の友情により事なきを得ましたが、喜前公は心中深く期する所あり、慶長七年清正公や日真上人等と議して本経寺建立を発願、慶長八年にはキリシタン宣教師を追放し、慶長十年(1605年)日真上人の高弟日恵上人を迎えて工を起こし、慶長十三年百聞四面一万坪の境内に間口九間奥行十二間の本堂を中心に七堂伽藍が完成、八月吉日身延山二一世日乾上人を迎えて開堂法要を営み、万歳山と号しました。
爾来大村法華の中心として栄えて来ましたが、不幸にも安永七年(1778年)火災の為全焼し、現在の建物は天明七年(1787年)に再建されたものであります。
当寺は、大村藩の菩提寺として藩内に重きをなしておりましたので、日蓮大聖人の御真筆四点や中正護師の一尊四士像等を初めとして貴重な美術品、仏像が格護されております。
境内に隣接する大村家墓碑群は規模の大きさに於て全国にも比例を見ないもので、長崎県は昭和三九年六月十九日これらを県の有形文化財に指定しました。
この墓碑群の中で十六代純伊公と十九代喜前公とを祀る霊廟はその中心を為すものであります。
純伊公は文明六年(1474年)有馬貴純の為に大村を追われ、玄海の孤島加々良島に潜む事七年、再び旧領を奪回された方で、御太宗と呼び習はしています。
此に対して喜前公は御中祖と呼ばれ、元和二年(1616年)八月八日、四十八歳でその波瀾に富んだ生涯を閉じました。
此の時その後を追うて殉死した藩士西太郎左エ門と朝鮮人秀山の墓が今も尚その廟の前に向き合って立っております。
珠に秀山は朝鮮から喜前公を慕うて来た陶工で、波佐見焼の祖と云われております。
十九代喜前公は病気の為慶長十九年家督を純頼公にゆずりました。
純頼公は元和三年にキリシタン取締について将軍秀忠の詰責をうけ、元和五年キリシタン宣教師を呵責して信徒のうらみを買うたりしておりましたが、元和五年十一月十三日突如として亡くなりました。
時に廿八才。一子松千代君は僅に二才、生母を正室としての届出さえしてなかった程で、法度により大村家は断絶の危機に直面したのであります。
家老大村彦右エ門は直ちに藩公病中の体にして跡目相続願いの為家臣を江戸に派し、自分も平戸の松浦、島原の松倉等の近藩と折衝して後顧の憂を絶った後、幼君を奉じて江戸に上る手筈を整えました。
所が折悪しく幼君が大病にかかられたのです。幼い君の生命は実に大村藩の生命でした。彦右エ門は我が娘亀千代の命を以て幼君の命に代えんと神明に祈りました。
その甲斐あってか幼君の病はやがて快癒し、翌けて正月廿一日には無事江戸につく事が出来ました。
彦右エ門の必死の運動が始まりました。毎日幼君を抱いて老中部屋に詰め、幼君を膝に柱にもたれて動こうとしません。
時折衣服の下から幼君の足をつねります。
泣き出す幼君を老中連がうるさいと叱れば
「これはまた情ない御言葉でございます。跡目相続願うとも未だに御許なく、残念じゃ、無念じゃと此の通り若君には泣き続けておられます。君の御心中を思えば胸はりさける思いでございます」
と誠忠を面にあらわして涙ながらに嘆願を続けるのでした。遂にその誠心は報いられて松千代君の相続が許されました。
早速使者が大村へ飛びました。折しも重臣連は純頼公の墓前に本願成就の祈をこめておりましたが、此の吉報に接すると、期せずして萬歳の声がわき起り全山にどよもしました。
家臣たちは改めて、山号を萬歳山とした先君喜前公の、お家萬歳と領民の平安萬歳を願った心の深さと、法華経の功徳に頭をたれたのであります。
然し此の本願成就は彦右エ門にとっては我が娘亀千代を神明に捧げなければならない悲しい日の訪れでもあったのであります。
然しこれによってそれ以後城主に子供があればたとえ嫡子でなくとも相続が許されるという事になった訳で、諸藩の大きな安堵となり、彦右エ門は天下の三大家老の一人と謳はれたのであります。
純頼公の御墓は質素な五輪塔ですが、松千代君、成人して純信公の御墓は高さ六米余りに及び、その台石の上二段は重ね石ではなく一つの石を二段に切ったものでその石工技術は高く評価されて居ります。
尚、その右前には純信公に殉死した近臣小佐々市右エ門の墓とその市右エ門の荼毘の火に飛び込んで後を追った忠犬の墓があります。
廿一代純信公治世にもキリシタンの山狩りが行われたり、島原の乱が起ったりしておりますが、廿二代純長公の時代には「郡崩」といわれる隠れキリシタン事件が持ち上がりました。
明暦三年(1657年)十月から翌萬治元年七月まで糺明や断罪が続き、一時はどうなる事かと憂慮された程大村藩の浮沈にもかかわる大事件でした。
その終息の翌年萬治二年に亡くなった純長公の七男次郎太君の墓前灯籠にはクルスらしい窓が彫られ、同じく息女於満志様の御墓は大切な悼石の上方角を別の石で繕ってあったり、大きな謎を秘めて居ります。
純長公の御墓と高さを競うておりますが、純長公のそれよりも一段と整い、此れ亦台石の上二段は一つの石を二段に刻んだものであります。
此の他墓碑群の内には精巧な彫刻を施した宝筺印塔や内部を格天井に刻んで金箔を押した豪華な大小の魂屋形式の御墓等があり何れも歴代藩主の偉徳をしのばせております。