法雨抄

孔孟の教えとは2007年01月01日

今年が佳い年でありますよう
     お祈り申しあげます。

 山崎闇斎は部屋の奥の方に厳しい面持ちで端座していた。ぎっしり集まっている門弟たちは、先生の言葉を一言も聞き漏らすまいと静まりかえっていた。突如として
 「皆のものに尋ねたいことがある」
と、闇斎の大きな声が障子をふるわせた。一同はぎくりとして我知らず平伏した。
 「外でもない。もし孔子が総大将となり、孟子が副将軍となって、大軍をひきいてわが国に押し寄せてくるような事があるとすれば、我々孔孟の道を学ぶものは、どうすればよかろうか。皆のものの覚悟の程がしりたい」
 これは思いもかけぬ難問であった。誰も答える者はなかった。不気味な沈黙が満堂の空気を鉛のように重くしていた。その時
 「不肖ども一同思案に余ります。先生の思し召しをお伺いいたしとうございます」
と、恐る恐る声があった。
 闇斎はいつもより厳然として言いきった。
 「不幸にしてそのような場合に出おうたならば容赦はいらぬ。奮戦して孔孟をとりこにし、これを軍陣の血祭りに挙げるまでじゃ。これが即ち孔孟の教えぞ」と。
 今この見識がほしい。今日色んな言論が乱れ飛んで、己の信ずる教え、或は主義のために、我のみ真実であるかのごとく振るもうて、他を排斥し、大義名分に反する行動が世の中を不安に陥れているのではないでしょうか。新しい年は本当に美しい日本をめざす大義の年でありたいと思います。
 日蓮聖人立正安国論に曰く
 「国を失い、家を滅ぼさば、何れの処にか世を逃れん。汝すべからず一心の安堵を思わば、先ず四表の静謐(せいひつ)を祈るべきものか」

平成19年1月1日 「孔孟の教えとは」

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