法雨抄

宗教とは2001年10月01日

 悲しみは分かち合うものだと昔から教えられてきた。
 それでも、広場を埋める数え切れない鎮魂のキャンドルを目にすると、改めて人と人との結びつきを思う。
 「ニューヨークの悲劇」から2週間がたとうとしている。街の一角には人間を飲み込んだままの瓦礫が残る。その一方で、世界一の大都市はいち早く「いつもの顔」を見せ始めた。それがまた、かえって痛ましくもある。
 あまりに大きな衝撃を受けると、人間は泣きたいと思っても泣き声さえ出なくなることがある。そんな時はしばらく待って、また思いっきり泣けばいい。だが、この国にはそれが許されないのかもしれない。
 報復の軍事行動が「Xデー」と言う言葉とともに平然と語られている。そのことと、悲しみに寄り添う人々の姿とが、どうしても重ならないままでいる。
 これはサンデー毎日10月7日号のグラビア写真に付せられたコメントの一節です。
 9月12日のあの事件は、アメリカと言うよりも人類が営々として築き上げたきた文明の一角が崩壊した瞬間でした。そして数千の人命が巻き添えをくったのです。原子爆弾以後最大の悲しみと言わなければならないでしょう。前のコメントはこの悲しみを良く表現してくれているのではないでしょうか。
 更に悲しいことは、それが神の名において行われたと言うことです。神の名において死を美化し、その行動を英雄視する、これ以上の神に対し、人類に対する冒涜はありません。宗教とは人が生きて行く上の、己の信条とする教えで、自分も生き、他をも生かして、皆が幸せであることを願う、その本体なのではないでしょうか。その本体が曲がると今度のようなことになって、社会に害毒を流すことになるのです。

 日蓮上人は諸経興法華経難易事に曰く、
 「体曲がれば景斜めなり」

平成13年10月1日「宗教とは」

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