法雨抄

脳死に思う1999年03月01日

朝日新聞の声の欄に大牟田市の九歳の中村華子ちゃんが寄せたこんな文章がありました。
病気で倒れた人が「脳死」と言われて、今、テレビも新聞も大騒ぎです。
それはその人がドナーカードをもっていたからです。かわいそうです。法律が出来て初めてのことなので、こんなにさわがれて。家族の人たちは、悲しむひまもないでしょう。私のお父さんも、私が五歳のとき病気で倒れて「死んでしまうかもしれない」といわれました。とてもこわくて、悲しくて、「寝たきりでもいいから、たすかってほしいね」と、お母さんや弟たちと話しました。
たおれた人にも家族がいて、心配しているだろうなと気になります。でもそんなときに、まわりの人が大さわぎしたらどうでしょう。せっかくこまった人に体の一部をあげようと思っていても、やめたくなるでしょう。体の一部をもらうことで、命がたすかる人はたくさんいるそうです。だから大切な治療の方法なんだなとおもいます。でも、それをあげる家族のことを、もっともっと考えてあげて下さい。
華子ちゃんのようにこんなやさしい心遣いの人がいることに今度の臓器の提供者も家族も救われるおもいです。今度の場合でも何となく脳死の判定を急いでいたような印象を持ったのは私だけでしょうか。脳死は死であると言っても、心臓が動いている病人を死者と見ることは心情的には大変なことだと思います。人間の死にまだ色々の議論が有ることを思えば、このドナーの家族の方の決断は悲しく、勇気有る決断だったと思います。これを機に命の尊さを改めて考えてみたいものです。願わくば臓器提供を受けた方たちが命の尊さを噛み締めて、これから二人分の人生を立派に生き抜いてもらいたいと願うものです。

日蓮上人可延定業書に曰く
命と申す物は一身第一の珍宝(たから)なり。一日なりともこれをのぶるならば、千万両の金(こがね)にもすぎたり。

(平成11年3月1日)

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