法雨抄

聞 法2007年09月01日

 日本では、中世から仏の声は聞くものだという意味の「聞法」を説きました。大乗経典にも「如是我聞(是の如く我聞けり)」と、一番最初に出てきます。お経は目でよむものではなく聞くべきものだったのです。
 しかし、明治以降の教育、特に戦後においては、中世的な古典はエクリチュール(書き言葉)として読むことが中心になった。「平家物語」も記述として目で読んで理解しようとした。しかし、元来「平家物語」は盲目の琵琶法師の語りです。人々はその語りを聞き、当時の人間の命のリズムのようなものを体感していたはずです。源平合戦の音、人間たちの喋り声、そうしたものが聞こえてこなければ、あの時代の時間の流れに接する事はできません。視覚で読んでしまっては、それらが消えてしまうのです。日本の中世文学、また能楽や浄瑠璃、義太夫に至るまで、語りの文化だということを戦後の教育は教えてきませんでした。(MOKU五月号山折哲雄氏「日本人の時間」より)
 いわれてみると、お経はもとより、詩、歌、俳句をはじめ日本の中世文学は皆聞いて耳になじむリズムがあります。そしてそのリズムが幽玄の世界へと導いてくれるのです。かつてインドの佛跡で聞いた、坊さんのお経のリズムが私たちが唱えるお経のリズムとよく似ていた事を思いだします。
 古い言葉に「毒鼓の縁」というのがありますが、毒を塗った太鼓を打つと、周りに居る人々がその音を聞いて毒に当てられて死ぬように、有難い仏法を聞けば、周りの人々はその罪障が死滅して、仏道に入る事が出来るという譬です。その有難い仏法を聞く事が「聞法」です。そして浄らかな、素直な心で、仏の慈悲のリズムの中に入ることが語りであり、成仏ということではないでしょうか。法華経提婆達多品に曰く
 妙法華経(の提婆達多品)を聞いて、浄心に信敬して疑惑を生ぜらん者は地獄餓鬼畜生に落ちずして、十方の仏前に生ぜん。

平成19年9月1日 「聞 法」

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