法雨抄

凡庸の自覚2004年12月01日

 12月ともなれば 忠臣蔵が話題になってまいります。作家池宮彰一郎氏は「最後の忠臣蔵」のなかで、かっての浅野家家臣進藤源四郎の口を借りて大石内蔵助の人柄をこう語たらせています。
 「内蔵助と申す御人は、事に臨んで迷い多く・・・煩悩にさいなまれ・・・わが身わが心を責めさいなんでつとめる悩み多き者にござりました。その平々凡々たる者であればこそ、あれ程の大事を成し遂げたと存じます。あれが世に優れた叡智天才であれば、かえって思いあやまりて取り違うこと多く事成った後に様々な批判酷評が生まれたでありましょう。凡庸を自ら認める者であればこそ、百般の事に気を配り・・・長く世の賞賛を浴びる事になった、と心得ます」
 「内蔵助どのが心を砕きましたのは、一に武士の尊厳を保ち、世にそれを示す事にありました。・・・
 討ち入りの同士一統に限らず、旧赤穂藩士の悉くが生活の立つよう、思考するのが国家老のつとめ・・・それに内蔵助どのの苦労がありました」
 「平々凡々たる者であればこそ、あれ程の大事を成し遂げたと存じます」という言葉は大変意味の深い言葉ではないでしょうか。叡智天才に恵まれなかったことを嘆くよりも、自らの凡庸を自覚し、色んなことに悩みながら、しかし道に外れることのないように勤めることが大事だということでしょう。
 今日あまりに利口者が多すぎて、曲を直と言いくるめるような言辞が世上の混乱を引き起こしている状況のなかで、今一番求められている人物像は、こういう平々凡々であるが故に、却ってみんなに気配りのできる非凡人ではないかという気がします。
日蓮上人は妙密上人御消息に述懐して曰く
 「日蓮は何の宗の元祖にも非ず、また末葉(まつよう)にも当たらず。持戒破戒にもかけて無戒の僧、有智無智にもはずれたる牛羊のごとくなるものなり」

平成16年12月1日 「凡庸の自覚」

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