法雨抄

五輪は平和の祭典2004年09月01日

 アテネ・オリンピックが終わりました。日本はメダルラッシュで沸きました。メダルを手にした選手たちの喜びの涙でクシャクシャになった顔を見ていて、つらい練習に明け暮れ、期待の重圧に耐えて掴んだ栄光だと思うと、それを見ているこちらも涙ぐんでしまいました。然し、その陰に不運にもメダルに達し得なかった選手たちの、 
 期待を裏切って申し訳ないとでも言っているような沈んだ姿には、頑張ったじゃないの、そんなにしょげることないよと言ってやりたい、そんな思いとさぞ悔しかったろうと一掬の涙を禁じえませんでした。それだのに何であんなに何度も何度も敗れたシーンを放映しなければならなかったのでしょうか。本人にしたらどんな気持ちだったろうと思うと、もういい加減にしてくれと言いたかった。敗者に対する思いやりはないのだろうかと悲しくさえなりました。
 以前はオリンピックは「参加することに意義がある」と言ってきたものでしたが、この頃では勝つことにあまりにもこだわりすぎて、敗者に対する配慮がみられず、勝つための不正行為が目立つようになってきたことは、事がスポーツの競技であるだけに残念でなりません。
 更にオリンピックは「平和の祭典」だったはずです。国際オリンピック委員会は一九九二年に、古代オリンピックの開催時には戦争を休止したという精神を復活することを提唱し、国連や各国政府に署名を求めてきたそうです。今回ほどその精神の生かさるべき大会はなかったはずですが、イラクに部隊を派遣している各国指導者ら二十人は署名したそうですが、巨大な一国はこれを拒否したということです。世界最高水準の競技を楽しむ民族共和の大会の陰で、なお民族の思惑の食い違いが血を流し合う人間のおろかさを思うと悲しいことです。
 日蓮上人上野書に曰く
 浄土と言うも地獄と言うも外には候わずただ我らが胸の間にあり。

平成16年9月1日 

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