法雨抄

私がいるから2004年03月04日

  福島県の17歳の高校生斉藤さんは、自分が悪口を言われているのを聞いて、腹がたって、悲しく、落ち込んでいたとき、友達の一言に救われた経験をこんな風に述べていました。(朝日新聞の投書より)
 愚痴を多くの人に言うのが嫌いな私、一人の友達だけに打ち明けた。その子は「私がいるからいいじゃん」と言ってくれた。
 そう、君がいる、君だけじゃなく、ほかにもいる。そのことに気付き、私は泣くほど嬉しかった。
 「私がいるから」-この言葉は、友達自身が以前、言って欲しかった言葉らしい。これからは私が言ってあげるよ。やさしい気持ちを教えてくれて、ありがとう。
 私はこんなにかけがえのない友達を持って、とても幸せだと思う。私も誰かにこの言葉を贈りたい。誰にでも自分を大事に思ってくれる人がいるということに気付かせてあげたい。私もいつか、誰かの支えになれるような人になりたい、と心から思った。
 「私がいるからいいじゃん」-今の若者らしい表現ですが、なかなかいい言葉ではありませんか。人は誰かに信じられている、誰かに頼られていると自覚した時強くなれるのです。そしてその一人の自覚が周りの多くの人を助け、幸せの渦の中に巻き込んでゆくのです。人という字が示すように、人は一人ではたってゆくことができません。支えられて立っておれるのです。しかし、同時に他を立てることによって自分も立っておれるのではないでしょうか。
 日蓮上人四条金吾殿女房御返事に曰く
 一切の人は憎まば憎め、釈迦、多宝、十方の諸仏、乃至、梵天、帝釈、日月等にだにも不憫と思われまいらせなば、何か苦しかるべきや。法華経だにもほめられ奉りなば、何か苦しかるべき。


平成16年3月4日 「私がいるから」

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