法雨抄

仏様の思いやり2001年03月01日

 遠藤周作のエッセイ「心のふるさと」にこんなエピソードがありました。
 私は今、碁をやっているが、碁会所で私の碁をそばに来て覗き、うす笑いを浮かべる高段者がいる。あまりに下手な碁なので思わずそういう笑いをみせるのだろうが、私としてはいい気持ちではない。・・・
 友人の家で碁の小林光一名人にお目にかかったことがある。その時、手合わせをねがったが、途中で私のうった一石に名人がじっと考えこんだ。
 うぬぼれの強い私はプロの名人をも考えこませたのは私が上達したのであるとその時おもった。もちろん私の大敗。
 後で酒になった時、少し名人が酔っておられたので、
 「さきほどの碁でしばらく考えておられましたが、あの時の私は妙手をうったのでしょうか」
 ときくと、名人はびっくりしたように、
 「いや、何目ぐらいで勝てば遠藤先生の自尊心を傷つけないか考えていたのです」
 との答え、私は仰天してしまった、と。
 良くあることですが、小林名人の遠藤さんへの思いやりでしょうか。其れが分からない我々はともすると自己過信におちいってしまうのです。
 お経の中に仏様が弟子たちに成仏の印可を与えられるくだりがよくありますが、あれも仏様の弟子たち、私たちへの思いやりではないでしょうか。自己過信におちいったり、或いは成仏と言う結論の見えないことに苛立ったりしないで、足下の一歩一歩に心をこめて歩んでゆくことを求めているのだと思います。その積み重ねが成仏(人間完成)と言うことでしょう。
 日蓮上人上野殿御返事に曰く
 法華経を・・・或いは火の如く信ずる人もあり、或いは水の如く信ずる人もあり。火の如くと申すは聴聞する時は燃え立つばかり思え共、遠ざかりぬれば捨つる心あり。水の如くと申すはいつもたえず信ずるなり。

平成13年3月1日「仏様の思いやり」

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