法雨抄

魂の霊気2000年03月01日

 長崎丸山の芸者愛八が郷土史家で長崎学の創始者古賀十二郎と長崎の古い歌を発掘採集して歩く中で「長崎ぶらぶら節」に出会い、それを世に出して行くと言う、愛八の生涯を描いた、なかにし礼氏の小説「長崎ぶらぶら節」は直木賞を受賞して、長崎では静かなブームを巻き起こしております。
 その中で古賀さんは、こう言っています。
「人間には肉体があり、魂がある。しかしこれだけでは平凡な人間たい。この魂が霊気を発して何事かをなす時がある。其れが創造と言う仕事たい。学問でも芸術でもすべて、この魂の霊気が天に通じなくては、天のひらめきは降りてこん。おいが、長崎の歌探しばしようと思いたったとは決して行き当たりばったりではなか。長年、長崎のことば学び考えつづけていたからこそ、そういうひらめきが訪れたとたい。ひらめいても行動ば開始せんやったら一文の値打ちもなか。人間の価値は行動で決まる。行動に駆り立てるものは魂たい」
 そして、愛八に対しても
「おいとおうちの魂が行動しているうちに霊気となり、その霊気が天に通じた。そして天から恩寵が降りてきた。其れが今日の、長崎ぶらぶら節との出会いたい」と。 情熱を持った魂が行動に触発されて霊気となり、霊気が天に通じて恩寵が降る、この図式はいつの世にも変わらないでしょう。
 人が何かをなそうとする時は、その魂の躍動があるはずです。その魂を揺り動かすところのものは、一端の激情ではなく、むしろ、長く一心に温めつづけ、その因縁が熟してはじけるエネルギーではないでしょうか。人が一心になると言う事は、時によってその人の力量以上のエネルギーを放出するもののようです。平凡な人間が一足飛びに菩薩や仏になれると言うのも、ここにその秘密があり、妙法の恩寵のしからしむところではないでしょうか。

 日蓮上人王日殿御書に曰く
 「稲変じて苗となる、苗変じて草となる、草変じて米となる、米変じて人となる、人変じて仏となる」


平成12年3月1日 「魂の霊気」

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