法雨抄

心こそ大切なれ1999年05月01日

何もかもが「過剰」になってしまった。
衣、食、住、そして遊びも気持ちも「過剰」になってしまった。出来る限り大袈裟に、大袈裟にと。そして、失ってしまったものに気がつかなくなってしまった。飾りたてた言葉に慣れてしまい、見栄を張った気持ちに慣れてしまった。そして、花一本の美しさ、その花に託された心を感じなくなってしまった。-中楽-
大きな花束だから愛が伝わるわけじゃない。一流レストランだから、誘った人が素敵に見えるわけじゃない。ごくごくありふれたお店にも、微笑ましいカップルは多い。何か、勘違いしているんじゃないかと思う事が多い。
プレゼントの「物」は、気持ちの二の次であって、決して「物」が第一であるはずがない。「物」に頼ってしまうから、気持ちがいつもフラフラしてしまう。「物」に頼ってしまうから、気持ちが先にゆかない。その結果、「物」が無くなってしまうと、気持ちが無くなったと誤解されてしまう。そんな愛情を求める人に、本当の愛情なんか分かるはずがない。(シグネチャー5月号松本一起エッセー)
不景気、不景気と言うのに、私たちの周囲には何と無駄が多いことでしょう。でもその無駄が無いと、何か落ち着かなくなってしまって入る私たちです。そして、無駄の蟻地獄の中に落ち込んで入る自分に気が付いていないのではないでしょうか。
「大きいことはいい事だ」などと言う言葉が使われるようになって、その大きさだけに心を奪われ、その本体の魔性に目を背けているのではないでしょうか。 蔵の中に物が有れば、それで満足して、蔵の中の物、その物自体の価値については何も考えようとしない。
「物」の魔性からときはなされて、何が今大事なことかを見極める知慧が要求されているのが今日ではないでしょうか。

日蓮上人崇峻天皇御書に曰く
蔵の財よりも身の財すぐれたり、身の財よりも心の財第一なり。

(平成11年5月1日)

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