法雨抄

発想の転換1998年11月01日

先日も一献傾けながら、私がつぶやいたのである。
「なんとなく人生の疲労感を覚えるよなあ、この頃は‥‥‥」
Uさんは即座に反応した。
「あんた、六十三歳だよな」
「そう」
「それじゃあ、あんた、三歳だ。還暦は仕切り直しだからね。過去はすべて捨てて新規まき直し、これから小学校に入って、大学も出なきゃならん」
「ふーん、小学校卒業できるかな」
「そんなことじゃ、あんた、夭折だ‥‥‥」
「ほ、ほ、ほ」
おかしなものである。たわいないやりとりのようだが、私は瞬間、気分が若やぐのを感じた。それ以来、
「僕は三歳」
が時折、頭をよぎる。悪くない。成人式を迎えるといくつか、などと考えたりする。
高齢化社会とか老人手帳、「敬老の日」というと、ジジむさく、重たい空気になるが、Uさんの仕切り直し発想だと、軽い。
これはサンデー毎日の岩見隆夫の連載サンデー時評の一節でした。
今は本当に大変重い暗い時代だから、発想の転換がそれを打ち破る大きな契機となるのではないでしょうか。
鎌倉時代の末期、人々は混乱の現世に希望をうしない、ただ来世へ僅かな希望をつないでいる重く暗い時代でした。
そんな時、日蓮上人はこの世が苦しいからと言って希望を失ってはいけない。一人一人が小さな希望でも大事にして、その自分の足元の小さな灯が、世の中の矛盾や問題をいくらかでも明るくして行くようにと念じながら強く生きてゆこう、と発想の転換を呼びかけたのでした。
現在もまた、私たち一人一人が世界や国家の問題を自分の事として捉えなければならない時ではないでしょうか。日蓮上人の
「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」の自覚を私たち一人一人が持つべき時ではないでしょうか。

(平成10年11月1日)

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